「毒親のような子育てを私はしない!」って、子供を正しく育てることじゃなく、「毒親のような子育てをしないこと」が目的となってしまっていないかな?って思うの。 「毒親のような育て方をしない私」ではなく、「子供」にフォーカスを当てた方がいいと思ったよ。
https://x.com/hiro_tebanasou/status/1850353940640190751
毒親のような子育てをしない!にある違和感
たまたまとあるブログ記事を読んだんですよ。
そこには、子育て中のお母さんで、過去に毒親からすごい「毒のある子育て」をされてきたそう。
その反抗心からか、

私は絶対にああはならない!!
毒親と同じ子育てをしてたまるか!!
毒親と同じようにはならないぞ!!!!
という感じで、意気込んでいるように見えたんです。
それがちょっとした違和感となって私の心に残りました。
毒親のような子育てをしないことが目的になってない?
この違和感についてしばし考えてみると、納得いく答えが見つかりました。
ああ、この人は「子育て」ではなく、「毒親のような子育てをしない自分」にフォーカスがいっているのだと。
ひろゆき氏(5ちゃんねる)が書いた記事で、
「子供も親を選べるといい。必ずしも産んだ親が子供を育てなくてもいい」みたいな内容があったのを思い出しました。
理由は、「子供が正しく健康に育つには、肉親じゃなくたっていいから」というものでした。
何が言いたいかというと、
「子供が健やかに育つ」ために、親の主張はあまり関係ないのでは、と思うところです。
「毒親のような育て方をしない」というものではなく、正しくは「子供が健やかに育つように」が重要なのではないかと思いました。
「毒親のような子育て」の呪縛
例えば「毒親のような子育てをしない」ことを最重視していたら、子供が何か尋ねてきた時に「毒親のようになってないか」ということが最重視されます。
- 毒親と同じ意見になっていたら、逆を言う
- 毒親と同じ行動をしていたら、逆のことをする
- 毒親と同じ思考になっていたら、逆のことを考える
「毒親ならこうしないだろう」「毒親ならこう言わないだろう」といったことを基準とするところに、「子供」への思いやりはあるのでしょうか?
例えば毒親に否定されまくって育ってきた場合、「子供には否定しない親になろう」と意気込みますよね。
でも、子供が間違った時すら否定しないのでしょうか?
なんかそれって思考停止だなと思っちゃったわけなんです。
「毒親のようにならない」は、結構、呪いだったりします。
毒親のようにならないことを最優先してしまい、判断力を鈍らせることになるからです。
例え毒親と同じ行動をとらなきゃいけないことがあっても、「子供のため」と思えることが、一番重要なんではないでしょうか。



「毒親のような子育てをしない」ことが真の目的なんですか?きっと違うと思います。
思考停止しないよう、自分の頭で考えて生きていきたいですよね。
「毒親」なんてもうどうでもいいんです。抹消しちゃいましょう。
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